僕の世界、君の世界

この世界は自らを映し出す鏡なのだそうだ。
見る角度一つで、それを見る人それぞれで、幸にも不幸にもなる。
価値観や世界観は人それぞれである。
ともなれば起こる事象に対する感情も人それぞれであり、全く同じ捉え方をする人は二人といないというのも真理なのであろう。

ともあれ生きていれば何かしらの小石に躓くことがままあるものだ。
時に自らの経験則では測れない事柄に対しての対処なんかは、先人に頼ることもあるだろう。
尊敬に値する師に助けを乞うこともあるかもしれない。

するとどうだろうか。
ある人は、そんなことがあって大変に不憫に思う、かわいそうに、と同情を向ける。
ある人は、そんなことがあって大変に喜ばしいことだ、おめでとう、と賛辞を贈る。
こんな風に反対意見というのが届くケースもままあるものなのだ。

視え方感じ方というのは実に多彩で多面的である。
表裏一体、三次元的、言い方は多々あるが、要は真実は一つではないということだ。
満腹というのは幸せでもあり苦しくもある、空腹というのは幸せでもあり苦しくもある。
家族というのは幸福であり宝であり希望である。
しかし家族というのは呪縛であり足枷であり絶望なのだ。

物事を正しく捉えるには、二次元的な表面だけではいけない。
その裏や側面、その先に何があるのか何が起こるのかといった多次元的、多面的な捉え方を「意識的に」見なければならない。

幸せだという人は本当は苦しいのかもしれない。
死にたいという人は心から生きたいと願っているかもしれない。
笑っている人は泣いているのかもしれない。
自分を嫌っている人は本当は心から自分を大切に思っているのかもしれない。

物事の表面だけで判断せずに、その背景を考えて正しく理解しようとする姿勢がまず最初の一歩なのではないだろうか。

ある有名漫画のワンシーンでこんなものがある。
「正義は勝つって?それはそうだろう。勝者だけが正義だ。」
表面的に見えるものだけが正しいわけではない、感情でも行動でも、その奥に隠されているもの、見えていないものにこそ真理があるのだ。

最近では自分の世界にすらも興味のない人が増えた。
問題が起きたとき、解決できそうな人を見つけ、自分より先に相談する。
まずは自分で自分に相談し、自分の頭で考えるべきではないだろうか。

他人の発言には責任が伴わない、最終的には行動に移す自分の責任だ。
聞こえは悪いが、他人の発言に従い生きるだけならば、その生物に価値などない。
あの人が言ったから、あの人に従っただけだから。
それらは全て言い訳であり、自分に責任を負いたくない者の逃げの選択である。
大切なのは自らの意志と希望に寄り添い、妥協点を探し、選択していくことなのだ。

自分のことは自分で考え自分で決める、それ以上でも以下でもない。
どんな環境でどう過ごすのかは自分次第であり、自分にしか決められないことだ。
自分に視えている世界というのは自分にしか視得ない世界であり、そこに他人の世界観を介入させる余地など本来ないはずなのだ。

もちろんないものねだりではきりがない。
しかしそこも加味したうえで、自分がしたい生き方、したくない生き方を選び、行動し、自分の世界を作っていく。
そうしてできた自分の世界を大切に。
そうしてできたであろう他人の世界観を大切に。

やはり世界というのは自分を映し出す鏡、なのかもしれない。

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