幸せになりたい。幸せな人が羨ましい、幸せな人が妬ましい。
幸せってなんだ。
その場その時の一瞬の感情のことを言うのだろうか。
それともその時の環境や状況のことを指すのだろうか。
一体、どれだけの幸せを手に入れたら、自分は心底幸せだと思えるのだろうか。
一体、どんな状態になれば自分は心底幸せだと思い続けることができるのだろうか。
人は変わりゆくものであり、世界もまた常に変わっていくものである。
変化に伴い置かれる環境や状況というものも変化していく。
永遠に変わらないものなどない、諸行無常。
つまり今が幸せでもその今は永遠ではなく、常に幸せを感じ続けることは不可能なのだ。
起きた事象や事柄に自らの幸せという感情を依存させていれば、永遠に幸せにはなれないとすら思う。
ではどうするか。
幸せを感じる能力を高めることだ。
同じことでも人によって感じ方はそれぞれである。
コップ半分に注がれたジュースを多いと思うか少ないと思うか、なんて例え話を聞いたことがあるだろうか。
今日の夕飯は白米と漬物とみそ汁ですよ。どう思うだろうか。
文句を垂れる者もいるだろう、作ってくれたことに感謝する者もいるだろう。
中には今日も食事がとれたことに感謝する猛者がいるかもしれない。
どう思うだろうか。どう思っただろうか。
そんな極端な話はしていない、私は普通の人間として普通の幸せが欲しいのだと、そう思っただろうか。
普通であるとは、いったい、なんなんだろうか。
私の嫌いなきれいごとの中に一つこんなものがある。
「悲しんだ分だけ、苦しんだ分だけ、人は幸せになれる」
ただのきれいごとであり、悲しみや苦しみの渦中にある人にとって何の慰めにもならないこの文面。
実際私も悩み苦しんだ時期にこの思考に触れたが、こんな言葉に救われた記憶などないし、きれいごとじゃ状況は変わらないと一蹴してきたクチだ。
だが真理である。
幸せというのは言い換えれば「不幸ではない」ということだ。
幸せを感じたいのであれば、その逆の不幸せを知らなければならない。
そうでなければその存在すら感じられないのだ。
小さな時から衣食住不自由なく、望むもの全て買い与えられ育った子供は、同世代の子供たちから羨望の眼差しを浴び、その子供たちには誰よりも幸せに映るだろう。
だがその羨まれた子供にとっては、その置かれた環境というのは幸せでもなんでもなく、ただの当たり前であり、意識を向けることもない日常である。
そこに幸せを感じる余地はない。
分かりづらいだろうか。
蛇口をひねれば水道水が出ることに幸せを感じられるか。
コンロのつまみを回せば火がつくことに幸せを感じられるだろうか。
スイッチ一つで夜を明るく照らす照明に幸せを感じられるだろうか。
感じられるわけないのだ。
それが生まれたときから当たり前にあった日常であり常識なのだから。
水道ガス電気、すべてが失われた世界を三日経験すればわかる。
水を自由に出し、火を使い安全に食事ができ、夜を明るく過ごせる幸せを。
そしていつ自分がその状況に置かれてもおかしくない世界に生きていて、そうなっていない現状がいかに幸せなのかをよくよく理解して欲しい。
本当に大事なこと、本当に大事なものっていうのは失ってから気付くのだ。
当然だ。
当たり前の日常に目を向け意識を向け、考えることは難しい。
多忙を極める人間社会に生きる我々にはその時間をつくることすらも難しい。
だから失った人は知っている。
それがどれだけ大切で、それを失っていない人がいかに幸せであるのかを。
幸せを感じる能力というのは、その振れ幅によると私は思っている。
地獄を知っている者こそ天国の価値を知っている。
天国しか知らないものは天国の価値を理解し得ない。
だから真理なのだ。
悲しんだ分だけ、苦しんだ分だけ、人は、幸せになれる。
そしてそれは同様に、それらの分だけ人を幸せにすることもできると私は思う。
経験、体験というものはこの世にたった一つしかない自分の武器だ。
そしてそれらから得た知識で判断した自分の「幸せ」というカタチ。
自分の思う「普通の幸せ」というのは、自分にとってこの世で最大の幸せなのだ。
誰かにとっては心底不憫な私の幸せは、誰かにとっては心底羨ましいものである。
幸せを感じるために不幸になる必要はない。
だが、自分は幸せなのだと感謝する心だけは持っていたいものだ。
いつもありがとう。