生きるという狂気

ただ何となく生きていると、ふと袋小路に迷い込むことがある。
なぜ生まれてきた?なぜ生きている?何のために生きている?
答えはない。
生まれてきたから生きている、ただそれだけのことなのだ。

しかし答えのない問題をそこで終わりにできるなら悩まない。
そこに陥った人は、何かしら自分で納得のいく道標を導き出すだろう。
家族のため、子供のため、幸せのため、趣味のため、夢のため。
自分の居場所を探し、自らにしか成し得ないことがあるはずだと。

そうして間違えていくのだ。
自分は自分でしかないのに、何者かになろうとしてしまうから。

そもそも生きるというのはそんなに容易いことではない。
原始生活に戻り、ただ生命を維持するというだけでも容易ではない。
例えばある日突然、山で遭難したら生き抜けるだろうか?
衣食住ライフラインすべてが断たれ、生き抜くことはできるだろうか?

それでも生きなければならない理由はあるだろうか?

食事はもちろん水もない、服も、雨風凌げる住居もない。
生きるには何かを食べなければならない、水を飲まなければならない。
虫や雑草を食べ、動物を殺し、雨水を溜め、火をおこし、家をつくり、生きる。
金なんてのは使う相手がいなければただの紙だ。
スマホなんてのは電波の届かない山ではバッテリー切れを待つだけのライトにしかならない。
そんな環境でも生き抜く覚悟があるだろうか。
そんな状況に陥っても生きなければという強い信念はあるだろうか。

生きなければと思う人は、どんな環境でも生き抜けるのだ。
生きる理由を見つけ、それを疑うことなく信じ、信念とする者は生き抜く。
ぶれないから。
揺るがないから。
信じること、疑わないことってのは狂気だ。まともじゃない。
何かを成し遂げる人っていうのはまともじゃない。
まともだったら諦めてしまうから。

生きるというのは大変なことだ。
生きることを成し遂げ、生を全うすることは狂気だ。

便利な世の中で金さえあれば生きていけるように見えてしまっているが。
それはそう見えてしまっているだけで、決してそれさえあれば良いわけではない。
今この社会に、世界に生かされているから成り立っているだけだ。
金というものに支配され、管理されていることに気付いているだろうか。
本当にそれであなたはあなたでいられるのか。
有事の際、当たり前が当たり前ではなくなったときに、自分でいられるのか。

答えはそれこそ人それぞれだろう。
死を選ぶ者、それでも他に依存して寄生する者、自らを律して生き抜く者。
大切なのは、どこまでいっても自分は自分なのだということだ。

私もあなたもこの世に生まれてきてしまった。
ただそれだけなのだ。
何者かになろうとしない、自分はどこまでいってもどうせ自分なのだから。
そのままの自分を認めて受け入れて信じてあげてほしい。
そこに良いも悪いもないのだから。

そして空を見上げて大切な人の笑顔を思い出し心の中でそっとつぶやこう。
「大丈夫、私は私だ。」

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