食べるという当たり前

人が生きる上で重要なことは何だろう。
人を生かすうえで大切なことは何なのだろう。
全てを挙げれば、ここで語るには重く深く長い考察になることは間違いないだろう。

そこで今回は最も重要とされる衣食住、
三大欲求である睡眠、食、性の中でも最も重要な「食」について考える。

生き物である以上、他の生を奪い生きている業を抱えている。
生きるという営みは、それらの上にしか成り立ち得ない。

では、人は、食べることに関してどう考えているだろう。
答えは簡単。一目瞭然。

「当たり前」なのだ。
当たり前になってしまっているのだ。
明日食べるものがない貧乏人を指差し蔑んでいるのが人間だ。
明日食べるものがあって当たり前だと自惚れているのが人間なのだ。

一体誰が何のためにこんな社会にしたのだろうか。
生きる上で最も重要な食べ物が常にある、そんな奇跡を。
さも当たり前のように感じてしまう世の中を、誰が作ったのだろうか。
どれだけ人間が偉いのか。
人間という種がどれだけこの世界にとって有意義であるというのか。

動物は我が子に狩りの仕方を教えている。
人間は何を教えている?
世間体か?金の稼ぎ方か?無価値を死守する協調性か?
それらは腹の足しになるのか?
教え育てたい者の血となり肉となり命をつなぐものなのか?

なぜ金などという虚弱なシステムを信じられるのか教えてほしい。
誰が何のために作ったシステムなのか知り得る術はもちろんないが、
それはお前の命を守ってくれる代物ではない。

世の中には農家や酪農家を嘲るバカがいる。
もちろん明日食う飯に困ったこともなければそんな可能性も持たないお花畑だ。

お前が生きるために必要なものはなんだ?
お前の命をつないでくれた、その犠牲となったものはなんだ?
それら全て、金という本来無価値である紙や金属では補えないものなのに。

資本主義なんて言うのは奢ったバカの妄想だ。
物々交換の時代の方がよほど生き物として成熟している。

金さえあれば食べることには不自由しないのか?
そんなことがあっていいわけがない。
他の命を奪う行為を、金さえ払えば何も考えなくていいのか?
そんな道理がまかり通っていいわけがない。

世の中には、売られている肉や魚が何なのか知らない者もいるそうだ。
鶏肉って何の肉?
マグロって赤い食べ物はどんな魚?
はたして彼らに存在する資格はあるのだろうか。

本来食べ物を手に入れるということは、自らの手を汚すことだ。
肉なら動物を。野菜なら植物を。
その生き物の生を奪い、自らの糧にするために、業を背負うのだ。
その業を背負ったことのない者、背負う覚悟のない者は生きるべきではないのだ。

同じ空間で息をして、家族を想い、生きたいと願い、対峙する生を。
自分が生きるため、大切な人を生かすため、奪う。

これの何をもって当たり前なのか。
なぜ金という代償を払ったという勘違いで見て見ぬ振りができるのか。

その虚構の中で粋がる者の存在価値など知れている。

だからこそ、当たり前という過ちに終止符を。
山の恵みに、海の恵みに、大地の恵みに、天からの恵みに感謝を。
いただきますと。

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