欲望とは限りのないものだ。
理想が叶えばそれが日常となり、日常は平穏となり平凡化する。
その先にあるのは身の丈に合わない更なる欲望だ。
向上心、と言えば聞こえはいいがこれも善し悪しだろう。
何と言ってもまずは己を知ることだ。
自分という個を表現するのに足るものは何だろうか。
自分が生きていく上でこれだけは譲れないという条件は何だろうか。
人によっては高収入、周囲からの羨望、権力なんてのも条件になり得るのかもしれない。
だが多くの人にとって、本来それは多くのものを必要としないはずなのだ。
ここでは、その「生きる上でこれだけは譲れない」事柄を執着と呼ぶ。
この執着を自分で考え、理解し、守っていくことができればそれでいいのではないか。
最低限自分であるのに必要な執着を死守することができれば、それはもう立派な個であり、あなたという生き物に価値がつく。
そしてその最低限を守れたなら、それ以上を意識的に望まないことが大切なのだ。
先にも書いた通りだが、人の欲とは限りのないものであり、それは無意識の領域にあると思っていい。
意識的にこれで私の欲は満たされている状態なのだと日々思い返さなければ、人は無意識のうちに貪欲になっていってしまう。
するとどうなるか。
端的に言えば「幸せだ」と感じられる状態から遠ざかっていくのだ。
全てを手に入れ、それが日常になってしまった者にとっては、手中にあるすべてが当たり前であり、10あるうちの1かけて9になれば、それはもうその者にとって幸せな状態ではないのだ。
幸せな状況というのは既に手中にあるのに、それを感じられない状態。
言い方を変えれば、私は他と比べて不幸であると思い込んでしまっている状態。
我々が欲した幸せは、いつしか当たり前になってしまった。
もはや感謝もされず、時にそれが崩れたときには怒りの種にすらなる。
なんと愚かしいことなのだろうか。
幸せを求め、更なる欲を満たすために奔走した結果が不幸の種になっている。
苦しみや悲しみというのは常に欲望の上に成り立っているのだ。
利を求めることも欲を満たすことも悪いことではない。
時にそれらは進化を生んできたし、社会を育んでもきた。
だがその反面、人間らしさや生き物としての在り方なんかを置き去りにしてきてしまったのではないだろうか。
人間社会のなんと愚かなことか。
人類のなんたる愚かさなのだろうか。
とはいえ我々は生まれてきてしまった。
だからせめて、心に安らぎと平穏、そして安定を保つよう努力しよう。
あるものはある、ないものはない、ないものねだりにはきりがない。
自分だけの執着、それ以上を望むことは、本当に自分を幸せにするのか。
今一度、胸に手を当て考えてみるのもいいのではないだろうか。