教え育てるということ

川を渡り向こう岸へ行きたい人がいる。
あそこに橋があるから渡れるよ、と教えるか。
周りを見渡せば何かあるかもしれないよ、と教えるか。
はたまた泳ぎ方を教えるか。
向こう岸まで泳いで見せて君にもできると呼びかけるのか。

あの山を登り頂まで辿り着きたいと願うものがいる。
効率悪いからロープウェイで登ってしまえと教えるのか。
登山の何たるかを理解させ、靴から揃えさせるのか。
君には無理だから違う道をと進めるのか。
はたまた背負って共に山頂を目指すのか。

教え育てるということは、語り尽くせないほど難しい。
相手の望む姿や将来像をある程度正確に把握しなければいけないし、何をしたいのか何をしたくないのかという願望も理解し想像できなければならない。
相手と同じ目線を持ち、先回りしていくつかの選択肢を提示することも必要だ。
教育者たる自分や協力してくれる者への依存が発生しないよう配慮しながら、いずれ来たる自立の時に備えることもまた必要なことである。
そして相手に慕われ敬われるだけの資質を持っていなければ、そもそも教えを聞く耳も受け入れる心も持ち合わせてはくれないだろう。

そもそも起きる事象や問題を相手がどう受け取りどう考えるかという無限の可能性は、人の気持ちを汲み取り理解できる能力がなければでき得ない芸当である。
その者のペースに合わせ、時に恨まれてでも道を正すこと。
この者を育てると己に定めたなら、その成長を傍らで見守ること。
難しいのだ。とてつもなく。
難しいから、面倒なことだからこそ、見て見ぬ振りをする者が後を絶たない。

これにより起こったことが教育者の不足である。
数の問題ではなく、質の問題だ。
これは世間一般で言われている教師や教員に限った話ではない。
企業の世話役や教育係、身近なところでは親という教育者も不足していると私は考えている。
そしてこの問題は絶望的に加速していくのだ。

何故か。
教えるという経験が圧倒的に足りていないからだ。
何となく生きてこられただけの「何とかなってきてしまった」層が厚すぎる。
石橋を叩いて渡り、あらゆる可能性を考え、備えて生きてきたものは少ない。
周りに合わせ、他人の言うまま時代に逆らわずに生きて来られたものが多すぎる。
自分で考えられない者は、考えさせることも出来ないのが道理だ。
考えさせることが出来ない者は、何も教えることが出来ないのと同じなのだ。

例えば疑問を持つ能力がある者に答えを与えることは愚の骨頂である。
せっかくそこに疑問を抱いたのなら、何故そう思ったのか、どうしたら解決できると思うか、その解決法は一つだけなのか、何が必要なのか、解決に至るまでのリスクマネジメントはできそうか、考えることは少なくないはずだ。
ならばそれを考えさせずして何が教育なのか。

今の時代、疑問に思うことはほぼすべてインターネットで解決してしまう。
そのプロセスを経ることなく「解決することが出来てしまう」のだ。
だが疑問を抱けたことの答えにまで疑問を持つものは少ない。
本当にそれで正しいのか、なぜ、それが正しいとされるのか、自分という存在にとってそれは本当に正しいことなのか、疑問を持てるものは少ないように思う。

先に答えを知り、そこから逆算することで効率化を図る者はただその場凌ぎをしているだけであり、自らの力で解決する能力を身に付けることはできない。
望む答えに辿り着くにはどうすればいいのかを考えさせ、他に依存せずとも答えに辿り着けるように教えるのが教育者だ。
問題を正しく問題と認識できるように、問題の解決の為に必要なものが何であるのかを一人で導き出せるように、考えさせるのが教育者だ。
そして、そこに辿り着けるだけの丁度いいハードルを用意し、失敗させ、怪我をさせ、痛みを教え、見守ることが教育者なのだ。

教え育てる者、それが教育者である。
断じて自分の都合のいいように育てる者ではない。

相手の世界を大切にできる者、相手の人生を尊重できる者。
そもそも教育者足り得る能力を持つものが少ないのかもしれない。

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