生きるということは絶え間ない選択の連続である。
数多の選択肢を突き付けられ、その取り捨てを迫られる。
悔やむという感情は、他の選択肢を思い浮かべるからこそ起こるもの。
故に過去という概念を持つ人間にしか起こらない。
あなたには心から悔やみ焦がれる過去があるだろうか。
選択を間違えたと、違う道を歩みたかったと、心焦がれる過去はあるだろうか。
誰しもが大なり小なりそれを胸に抱き生きているように思う。
過去には戻れない、やり直すことはできない。
わかっていてもその過去からの解放を心は許してくれない。
後悔の行き着く先、その終点は「出生否定」だ。
生まれてこなければよかったと。
自身の選択に押し潰され、間違いだったと耐えられなくなった時にそこに行き着く。
しかし何とも逆説的だが、後悔の多い人生ほど充実しているのだそうだ。
人としての深みが増し温かくなれるのだそうだ。
きっと心から苦しんだ経験を経て、他人の感情を深く理解できる器ができるからなのだろう。
苦しみの渦中ではそんなことどうでもいいと一蹴してしまうが。
それでも今を生きている、生きてしまっている。
生きてくれている。
ではこれ以上の後悔を自分にさせないために何ができるか考えてみる。
今の自分を作り上げたのは自分であり、過去の自分の選択だ。
誰かのせいでも環境のせいでもない。自分で選び作り上げたのが今の自分だ。
では過去の自分は何を考え何を思い、無数にあった選択肢の中から今の自分を選んだのか。
何も考えていなかった、はナシだ。
何も考えていなかった過去など存在しないのだから。
そしてその選択は、本当に間違いだったのか。当時の自分になって考える。
正解や不正解、成功も失敗も全て結果論だ。
「今になって考えれば」間違いだった、「今思えば」あれが正しかった。
後出しでいいなら誰でもいくらでも何とでも言える。
先がわからない、確定していない未来に進むための選択を誰が責められようか。
きっとその時その状況で、当時の自分は必死に選択したはずだ。
勘違いしないでほしいのだが、これは開き直れと言っているわけではない。
正当化でも、諦めでもない。
過去を受け入れて前に進む覚悟を持つには必要なことなのだ。
過去何を思い選択し、今何を思い後悔しているかを明確にしなければいけないのだ。
怖くても。涙がこぼれても。手が震えたとしても。
過去起きた事象、結果論で導き出した後悔と対峙したら目を閉じる。
そして考えてほしい。
明日、自分が死を迎えるとして、後悔するとしたらその要因は何だろうか?
自分の頭の中には自分以外は誰もいない。
誰に聞かれるわけでも誰に知られるわけでもない。
だから心の声に耳を傾けて素直に正直に。
明日死んだら後悔する要因を導き出したなら、明日死んでも後悔しないように今度は自分で自分を導いていく。
今の自分で選択し、未来の自分に後悔させないために。
毎日それを意識して、毎日大切に思い、行動に移す。
出し惜しみはなしだ。
死力を尽くし、自らにこれ以上悔いを残さないように生きる。
今しかできない選択を、未来の自分に悔やませないように決断していく。
この文章を読んでいる自分は、数年後、あの時に戻りたいと切望している「あの時」かもしれない。
過去を理解し受け入れた上で、未来の自分の為に今を生きよう。