動物園、人間社会

「ここにいる動物を見ていると自分を見ているようで苦しい」
以前動物園へと出向いたときに、そう思った。

何が違うのか、説明できる方はいらっしゃるだろうか。
管理され、制限され、強制され、本来あるはずの自由はない。
生きているのか、生かされているのか。

動物園で生まれた動物は外の世界を知らない。
最低限生きることに不自由はないし、ある程度の安全は確保されている。
本来野生に生まれていれば、常に死と隣り合わせである。
食事が獲れなければ餓死、食事にされても命はない。
安全性の保障などなく、水は菌と寄生虫の住む自然由来のものだ。
その代わりに何にも縛られることはない。

管理されることに慣れることとは、管理者に依存していることと同義である。
管理されているものは、管理者なしでの生き方を知らないのだ。
そもそも外の世界を知らないのだから、違和感すら覚えないだろう。
何とかしてくれるのが管理者の役割だ、我々の生命を脅かすようなことをするはずがない、と。
それは私から言わせれば生きることからの逃避に他ならない。
管理者は我々から生きる術を奪いたいのだから計画通りなのかもしれないが。

動物園の目的は何だろうか。
世間で言われている目的は大きく4つで「種の保存」「教育」「調査、研究」「レクリエーション」だそうだ。
要約すると人類のエゴであったり知識欲であったり娯楽が目的である。
決して動物のためではない。
人間の勝手な思い込みや欲によって、生きる術を奪われ、展示されているのが動物園という場所である。
本当に動物を思うなら、自然に還し自らの力で生きる術を学ばせるべきなのだ。

人間社会でも同じことだ。
我々庶民の生活や日々の苦しみになど端から興味などない。
人間社会を管理しているものの私欲、利権、知識欲、娯楽のための社会。
なぜか?
管理者が見ているのは「動物」ではなく「動物園」だからだ。
大切にしているのは管理している「人間」ではなく「管理者達の尊厳と居場所」だ。
言葉の通じない管理者に、生きる世界の違う者たちに、その者たちの都合で生かせず殺さず管理されているのが人間社会という牢獄である。

生かされているこの社会の中にあっても、番号付与までされて管理されるこんな社会にあっても、それでも生きていられればいい、そう思う人もいるだろう。
もちろんそれを否定する気はない。
だが私は管理や強制といったものに強い嫌悪感を抱く。
それも会ったことも話したこともないような、人となりの知り得ない者からのそれだ。

先にも書いたが、管理社会と制限やルールに縛られた世界では生きる術を学べない。
生き方を知れないというのは恐ろしいことである。
何故か?
生き方を知らない者は、当然だが生き方を教えることができないからだ。

社会に依存し、国や世界、自分以外に依存しなければ生きていけない。
管理者に管理されろ、ルールに従え、疑問を抱くな、そんなことしか言えない。
そんな人間にはなりたくない。
生きていて欲しい大切な人に、ただ生かされていろとは伝えたくない。
故に私は管理、強制というものに強い嫌悪感を抱く。

実際のところ、ここまでわかりやすい図にはなっていない。
しかし、動物園と人間社会には似ているところが少なからず見て取れる。
だからといって何かできるわけでもない。
それでもまんまと利用され、どこの馬の骨とも知れない輩の思惑通りにただ駒として終わる人生になることは避けたい。

考えれば考えるほど、自分の無力さに嫌気が差す。
この世界を変えるなど土台無理な話であり、過ぎた願いなのかもしれない。
それでも諦めきれなくて。
ほんの少しの抵抗としてこんな文章を書き綴っている。
140文字すら長いと言われるこんなご時世に。
まだ私にも何かできることがあると信じて。

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