誰もが今を生きている。
誰しもに過去と未来に思いを馳せる権利がある。
そして、過去の自分に後悔を持たず、未来の自分に希望を抱かない人は少ないように思う。
我々には過去を変えることはできない。
しかし未来を変えることはできる。
何度も聞き、目にしたことのあるフレーズだと思う。
未来を変えられるのは今だ。
決して明日や来週ではない。
思い立ったが吉日、ではない。
変えたいのなら、変わりたいのなら、今なのだ。
未来というのは「今」この時の積み重ねであり、この「今」の延長線上にしかない。
その他どこを探しても存在し得ない。
自分が「今」しか生きられない以上、「今」の自分に満足していないのなら、「今」を変える他ない。
それは五分後の自分でも、明日の自分でも、来年の自分でも同じことだ。
昨日と同じ今日を送れば、今日は昨日と同じ日になる。
そして明日からも同じことを繰り返していくだろう。
これには理由がある。
人には潜在意識というものがあるそうで、その第一優先は生きることなのだそうだ。
昨日が存在していることは、あなたは昨日を生き抜いたということ。
昨日を生き抜くことができたというその実績は、当たり前ではなくとても尊いものであり、成功体験として潜在意識に刻まれる。
昨日と同じ時間の使い方、行動をとれば、今日もまた生き抜く可能性が高い、と。
つまり昨日の自分との変化を無意識化で拒絶するよう、本能的に生存本能が働くようにできているということ。
これは今を変えたい者にとっては非常に厄介なことである。
この潜在意識に勝てなかった者は、また今日も何も変えられなかった、昨日と同じ今日を過ごしてしまったと自分に嫌気が差すことだろう。
しかし無意識化では、昨日と違う、まして新しい挑戦やチャレンジとなるとこれは命に関わる重大案件であり、生き抜くために全力で阻止してくる。
変えられなかった自分で当たり前だ。
腹が減る、眠くなる、といった生存本能と同レベルの自分と戦うのだから。
それこそ自分で命を懸けるくらいの覚悟を持たなければ、今の自分を変えることは難しいのだ。
とはいえ自分の望む自分になるためには今のままではいけないのだと気付くときは必ずやってくる。
時間は有限であり、動かない時間が長ければ長いほど不利になる。
明日の自分は勝手に頑張ってはくれない。
何かが起こって明日が変わったとしても、それは自分の力で「変えた」のではなく外的要因によってただ「変わってしまった」だけに過ぎない。
自分の力で変えられなければ、自分の意識で無意識を超えなければ意味がない。
ただ周りに依存し環境に依存し流されているだけの人が変わったとしても、その人はきっと同じ道を辿る。
そして同じ悩みを抱えるであろうその時も日々を浪費し、過去を振り返り、あの時あれだけの時間があればアレができたコレもできたと悔やむのだ。
今、その時間は本当に作れないのか。
明日の自分は自分ではない。
明日の自分は空想の存在であり、今のところ存在すらしていない。
そんなものに期待をし、自分の未来を託してもいいのか?
今の自分はそんなにも無力なのか?
明日の自分は偶像だ、明日やろう明日から本気出そうなんて考えは、今を変えたくない潜在意識が導き出した言い訳だ。
改めて自分に問いかけてみてほしい。
変わりたい自分はいるか?
未来の自分にどんな希望を抱き、そのために今を変える必要があるか?
今の自分を変えることは、できそうだろうか?
「できない」と答える人へ。
「できない」というのは「できなくてもいい」と思っているということだ。
であればその選択に後悔の無いよう、自らの中にある「できないでは困る」ことに更なる力を注ぐといい。
その選択もまた前進であり、悩んだ分だけバネとなり、自分を支える土台になる。
「できる」、そう答える人へ。
未来というのは何が起こるかわからない。
戦争も感染症騒ぎも国の衰退も政治の腐敗の表面化も、想定していなかったのではないだろうか。
だからこそ、やりたいことをやるべきなのだ。
先を考え動かない動けない日々を浪費するくらいなら、今、動こう。
ゼロをイチに。
そして想定外の弊害に負けず、定めた目標に向かって進んでほしい。
未来は今の延長線上にしか存在し得ない。
今の延長線上に望み通りの自分がいないなら。
変えなければいけない。
自分に勝つことがまず第一歩だ。